タイトルの通り、「プロジェクト・メソッド」の日本における普及の歴史についてまとめられた論文をレビューします。
論文はこちら(被引用数:7件 (2024年3月6日時点))
遠座知恵, & 橋本美保. (2009). 日本におけるプロジェクト・メソッドの普及. 東京学芸大学紀要 総合教育科学系, 60, 53-65.
大正新教育運動における実践理論として日本に受容されたプロジェクト・メソッド。
1921年に初めて日本で紹介され、一時的なブームを巻き起こしたが、その後、衰退していきます。
その一連の流れが記載された当論文。ポイントを掻い摘んで以下にまとめます。
【日本におけるプロジェクト・メソッドの研究の始まり】
・日本でのプロジェクト・メソッドの研究は1919年に始まり、1921年頃に集中的に紹介された
・1921年の記事は、大半がアメリカにおける議論の概要か特定人物の論考紹介であり、それらは、School adn Society誌やElementary School Journal誌、TCR誌などに掲載されたアメリカの雑誌記事が元になっていた
・1921年3月には、プロジェクト・メソッドを批判的に検討するシンポジウム「プロジェクト・メソッドの危険および問題点とその克服法(The Dangers and Difficulties of the Project Method and How to Overcome Them)」が行われた。
・1925年、北沢がEllsworth Collingsの実験結果をまとめた「An Experiment with a Project Curriculum(Macmillan, 1923)」を紹介し、従来型の学校教育よりも、プロジェクト・メソッドを用いた教育の方が、あらゆる面で優れた効果をもたらしたと紹介した
【実践家による実践報告(1922年以降)】
・初期の記事はほとんどがアメリカの論考の紹介であったが、次第に実践報告も行われるようになった
・最初の実践報告は、1921年の東京女高師附小の「春季遠足のプロジェクト」であった(遠足当日にむけ、自治委員会を開き、児童と教師の間で協議が重ねられ、当日の計画が立てられるまでの過程紹介)
・その他、「プロジェクトメソッドによる算術教授の実際」(吉田, 1923)や、「構案法に依る学校体験」(吉田, 1923)などが発表される
【キルパトリックへの再注目】
・キルパトリックは1927年と1929年に来日し、1927年にはそれを受けた記事がいくつか発表された
・キルパトリック理論の紹介者として当時認知されていたのは松濤泰巌(The Project Methodの論文が発表された時にアメリカ留学していた)であった
・1927年に、キルパトリックに師事して帰国した西本三十二が再び彼の理論を取り上げたが、プロジェクト・メソッドがかつてのような注目を浴びることはなかった
ざっと読むだけで、プロジェクト・メソッドがいつ頃、誰によって、どのように紹介され、注目されていったのかを理解することができました。こういうまとめはとても助かります。
気になったのは、「なぜプロジェクト・メソッドが衰退していったのか」ということ。
当論文で引用されている「大正自由教育の研究」(中野, 1968)には、以下のように説明されているようです。
【大正新教育運動衰退の原因】
・国家権力による運動への弾圧
・教育内容に対する統制地域社会における支持基盤の脆弱性
・実践家たちによる「方法改革への自己限定」
ここの解像度をもうちょっと上げたいので、別途読んでみたいと思います。
現在の日本においても、プロジェクト学習や探究学習に注目が集まっていますが、それに対する批判の声も上がっています。
例えば、プロジェクト活動: 知と生を結ぶ学びには以下のような記述があります。
「プロジェクト活動は、教育の理想として高く掲げられてきたが、他方で、教育失敗の原因としてスケープゴートにされてきた。「学力低下の原因は総合的学習にある」といわれるように」(p.1)
なんだか、今の探究学習への注目は、当時のプロジェクト・メソッドへの注目と同じような雰囲気を感じます。
今でこそ様々な研究でプロジェクト学習の学習効果が示されていますが、それがまだまだ伝わっていないと感じますし、プロジェクト学習の実施を妨げる阻害要因のようなものもあるのだと思います。
その問題点を明らかにし、普及に向けた打ち手を考えていきたい。
そう思わせてもらえた論文でした。
論文はこちら(被引用数:7件 (2024年3月6日時点))
遠座知恵, & 橋本美保. (2009). 日本におけるプロジェクト・メソッドの普及. 東京学芸大学紀要 総合教育科学系, 60, 53-65.
大正新教育運動における実践理論として日本に受容されたプロジェクト・メソッド。
1921年に初めて日本で紹介され、一時的なブームを巻き起こしたが、その後、衰退していきます。
その一連の流れが記載された当論文。ポイントを掻い摘んで以下にまとめます。
【日本におけるプロジェクト・メソッドの研究の始まり】
・日本でのプロジェクト・メソッドの研究は1919年に始まり、1921年頃に集中的に紹介された
・1921年の記事は、大半がアメリカにおける議論の概要か特定人物の論考紹介であり、それらは、School adn Society誌やElementary School Journal誌、TCR誌などに掲載されたアメリカの雑誌記事が元になっていた
・1921年3月には、プロジェクト・メソッドを批判的に検討するシンポジウム「プロジェクト・メソッドの危険および問題点とその克服法(The Dangers and Difficulties of the Project Method and How to Overcome Them)」が行われた。
・1925年、北沢がEllsworth Collingsの実験結果をまとめた「An Experiment with a Project Curriculum(Macmillan, 1923)」を紹介し、従来型の学校教育よりも、プロジェクト・メソッドを用いた教育の方が、あらゆる面で優れた効果をもたらしたと紹介した
【実践家による実践報告(1922年以降)】
・初期の記事はほとんどがアメリカの論考の紹介であったが、次第に実践報告も行われるようになった
・最初の実践報告は、1921年の東京女高師附小の「春季遠足のプロジェクト」であった(遠足当日にむけ、自治委員会を開き、児童と教師の間で協議が重ねられ、当日の計画が立てられるまでの過程紹介)
・その他、「プロジェクトメソッドによる算術教授の実際」(吉田, 1923)や、「構案法に依る学校体験」(吉田, 1923)などが発表される
【キルパトリックへの再注目】
・キルパトリックは1927年と1929年に来日し、1927年にはそれを受けた記事がいくつか発表された
・キルパトリック理論の紹介者として当時認知されていたのは松濤泰巌(The Project Methodの論文が発表された時にアメリカ留学していた)であった
・1927年に、キルパトリックに師事して帰国した西本三十二が再び彼の理論を取り上げたが、プロジェクト・メソッドがかつてのような注目を浴びることはなかった
ざっと読むだけで、プロジェクト・メソッドがいつ頃、誰によって、どのように紹介され、注目されていったのかを理解することができました。こういうまとめはとても助かります。
気になったのは、「なぜプロジェクト・メソッドが衰退していったのか」ということ。
当論文で引用されている「大正自由教育の研究」(中野, 1968)には、以下のように説明されているようです。
【大正新教育運動衰退の原因】
・国家権力による運動への弾圧
・教育内容に対する統制地域社会における支持基盤の脆弱性
・実践家たちによる「方法改革への自己限定」
ここの解像度をもうちょっと上げたいので、別途読んでみたいと思います。
現在の日本においても、プロジェクト学習や探究学習に注目が集まっていますが、それに対する批判の声も上がっています。
例えば、プロジェクト活動: 知と生を結ぶ学びには以下のような記述があります。
「プロジェクト活動は、教育の理想として高く掲げられてきたが、他方で、教育失敗の原因としてスケープゴートにされてきた。「学力低下の原因は総合的学習にある」といわれるように」(p.1)
なんだか、今の探究学習への注目は、当時のプロジェクト・メソッドへの注目と同じような雰囲気を感じます。
今でこそ様々な研究でプロジェクト学習の学習効果が示されていますが、それがまだまだ伝わっていないと感じますし、プロジェクト学習の実施を妨げる阻害要因のようなものもあるのだと思います。
その問題点を明らかにし、普及に向けた打ち手を考えていきたい。
そう思わせてもらえた論文でした。
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